生野学園の成り立ち
創立20周年記念誌「生野学園のあゆみ ー 理事長 宇都宮誠」より抜粋
現在の森下神経内科診療所
現在の京口スコラ
建設中の食堂(手前)と寮(左奥)
開学時、栃原の方が作ってくださった手作りのアーチ(平成元年4月17日)
 昭和57年、開所して間もない森下神経内科診療所へ不登校の子どもたちや親御さんが藁をもつかむ気持ちで次から次へと訪れた。翌年には少しでも早く子どもの苦しみを理解したいという切実な思いから、同所に「登校拒否の子をもつ母の会」が発足した。そこでは生々しい本音の議論がなされ、怒り、涙・・・そして母自身の内省へと深まっていった。さらに不登校そのものより、子どもたちが本当の自分を生かせる環境作りこそ必要と、30人足らずのお母さん達が680万円を絞り出し、そこに森下医師が借金した5千万円が加わり京ロスコラが誕生した。
 自由な空間の中で少しずつ活き活きした表情を取り戻してゆく子どもたち。今一度、親子、夫婦、家族を見つめ直し、さらに自分自身の内省を深めてゆくお父さん、お母さんたち。そして少々の寛容さや普通の親切だけではなかなか子どもたちの心が開かれていかないことに気づき、自分を問いながら一人ひとりと必死で関わるスタッフたち。そこには目に見えないがかけがえのない出会いが生まれ、それに呼応して子どもたちは元気を取り戻し、新たに自分らしく生きる道を歩む勇気を持ちはじめた。しかし、高校卒業資格の壁や、今の社会、学校、地域は健やかな子どもたちを育てているのかという疑問がいつしか学校を創ろうというとんでもない発想となり、大きな動きへと拡がっていった。
 昭和62年6月、京ロスコラ親の会を中心とした決起集会に始まり、翌年4月には生野学園設立準備財団が設立され、姫路市を中心に運動はどんどん拡がっていった。産業界、婦人会、医師会、連合PTA、校長会など寄付を下さった方は2万人を超え、国、県、広域行政からの約2億円の補助金を加えると約6億円が集まり、人も自然も素敵な朝来市生野町栃原の地に晴れて生野学園高等学校が誕生した。平成元年4月17日の開学式の折り、学園入口に栃原地区の人たちが手づくりのアーチを創り歓迎して下さった感激は今でも忘れない。
 当時のことを森下一(はじめ)財団理事長(現法人名誉理事)は「若者たちの魂の復活を訴える私たちの運動、生野学園設立の運動は成功した。なぜ成功したのか。私たちには神仏による奇跡としか説明がつかない。しかし、物と金と保身と快楽に流れる日本の現状に対する幾多の人々の不安と批判が厚志の形で若者たちの心の再生を願う私たちの運動に合流したのではないだろうか。」と平成9年「吉川英治文化賞」を受賞されたのを機に書かれた著書『不登校児の教えてくれたもの』(ポプラ社) の中で述べている。
 平成14年4月には、 もう少し早く出会えていればここまで深く傷を背負うことはなかったんじゃないかという子どもたちや親御さんに出会い、やるせない思いがつのり、加えて不登校の低年齢化もあり、日本財団のご協力を得て生野学園中学校を開校した。
現在の森下神経内科診療所
現在の京口スコラ
建設中の食堂(手前)と寮(左奥)
開学時、栃原の方が作ってくださった手作りのアーチ(平成元年4月17日)
生野学園について開学当時の新聞記事
平成元年3月3日毎日新聞朝刊